明治30年代半ばに、当時、西原己之作(初代)は、中野市の安源寺地区で瓦の製造をしていました。愛知県三河の鬼瓦職人・斉藤梅三郎(本名:梅太郎)が、冬季間の副業として土人形を作らせたのが始まりといわれています。

斉藤梅三郎は、全国的にも有名な鬼瓦職人でした。斉藤梅三郎は、歌舞伎にも造詣が深く、土人形作者のために多数の歌舞伎人形の型を提供したといわれています。

当初、中野市から北の飯山方面で売り出されていました。2代目:義量は、初代:己之作の手伝いをしていたことから、己之作の死後、すべての型を譲り受け制作していましたが、昭和7年に出兵することとなり、人形作りは中止されました。昭和34年には千曲川の洪水で土人形の型が大量に流失しましたが、3代目:袈裟慶により、昭和46年ごろに立ヶ花土人形の復活となりました。

現在は、五代目:西原久美江氏(4代目:故西原邦夫氏の奥様)とそのご子息が制作しています。