奈良家:ふぐ乗り大黒

江戸時代後期の文化・文政年間ごろ(1804-1828)に初代の奈良栄吉が京都へ福寿草を売りに行きました。そこで、伏見の土人形に心をひかれた奈良栄吉は、その人形型を譲り受けました。また、夫婦者の伏見人形の職人を中野に呼び寄せ、作り方を習い制作したのが『中野人形』の始まりといわれています。

奈良栄吉は、伏見から約40回にわたって、百数十個の人形を持ち帰ったと伝えられています。

また、中野で開かれていた定期市(九斎市)に土人形を売り出し、好評を博したそうです。昭和に入ってからは、現在の雛人形の人気におされ、土人形は衰退しました。戦時中には、土人形作りの重要な材料のひとつである“ニカワ”の入手が困難になり、制作は一時中断されました。

昭和32年に、4代目:政治が土人形作りを再開し、昭和34年には、再び『ひな市』で売り出されることとなりました。現在は、五代目:奈良久雄氏と六代目:奈良由起夫氏が伝統を守り制作しています。